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第1029話

Author: 宮サトリ
瑛介が手を放したとき、弥生は一瞬呆然とし、しばらくしてようやく我に返った。

......本当に言ったとおりにやめた?これで終わり?

耳たぶにはまだ彼の唇の温かさが残り、じんわり痒いような感覚が心まで広がっている。思わず手を伸ばして触れたくなったが、途中でぐっとこらえて引っ込めた。

だめ、触れちゃだめ。触れたら、また瑛介にからかわれるに決まってる。

だから弥生は、耳たぶに触れたい衝動を必死に抑え、じっと座って気持ちを落ち着けた。

「......なんだか、がっかりした顔してる?」

瑛介がまた不意に顔を寄せ、耳元で囁いた。

「続けなかったから......がっかりした?」

「......違うわ!」

強く否定すると、弥生は勢いよく立ち上がり、唇を噛んで言った。

「あなたひとりでここにいればいいわ」

そう言って立ち去ろうとしたが、手首を瑛介に取られた。

「待てよ、怒るな。ただの冗談だ」

「放して」弥生は手を引こうとした。

瑛介は観念して言った。

「分かった......僕は、君がその菓子を食べきれないと思ったから食べたんだ」

その言葉に、必死で手を振り解こうとしていた弥生の動きが止まり、顔を向けた。

「......なんですって?」

「食べきれなかったんだろ?だから僕が代わりに食べた」

そう言われ、弥生は一瞬心臓が跳ねた。気づかれたかと不安になり、思わず反論した。

「食べられないって言ってないよ」

「そう?」瑛介が眉を上げた。

「食べられるなら、どうしてあんなに小さくかじって、あんなにゆっくり食べてたんだ?」

「......私、よく噛んで食べるのが好きなだけよ」

「そうか。じゃあ僕が言い直そう。僕はただ、君の手に持ってる菓子を食べたかっただけ。それでいいか?」

それ以上追及せず、あっさりそう言う彼に、弥生は黙り込んだ。彼女は何かを考えているようで、しばらく言葉を発さなかった。

やがて、ようやく口を開いた。

「......実は、最近あまり食欲がなくて。でも、少しずつ調整してるところなの」

思いがけず打ち明けられ、瑛介は驚いたように彼女を見た。

「......そうか。分かってる」

確かに彼女は調整している様子だった。検査でも大きな問題はなかった。だから深くは追及しなかった。

そう思うと、瑛介はつい彼女の後頭部に手を置き、優し
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